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zoom RSS 映画 「KOYAANISQATSI」(コヤニスカッツィ)

<<   作成日時 : 2005/02/02 23:33   >>

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レンタルDVDを観ていたのですが、
これがちょっと異色でして、音楽と映像のみの「KOYAANISQATSI」(コヤニスカッツィ)。
映画の最後に文字が映し出されて、そこに(英語と日本語)

「KOYAANISQATSI」(コヤニスカッツィ)とは、ホピ族の言葉で、
 1.常軌を逸した人生
 2.混乱した社会
 3.平衡を失った社会
 4.崩壊する社会
 5.他の生き方を脅かす生き方
 を意味する。
 
ホピの予言
 地の底の貴重な宝を掘り起こすとき―――
  大いなる災いが降りかかる
 ”やがて空は一面のクモの巣で覆われる”
 ”浄化の日が訪れたのである”
 ”死の灰を入れた鉢が傾くとき―――
  大地は焼けただれ、海は干上がるだろう”

とありました。
この映画は三部作のうちのひとつで、あと二つも観てみたいなと思っています。
因みに
 「ポワカッツィ」と「ナコイカッツィ」です。
この映画は、一切言葉がないのが特徴のようです。
言葉がないだけに、どのように観ようがその人の自由なんですね。

これは新しい手法で、新しい時代への移行とリンク、シンクロしているように感じます。
監督へのインタビューを聴いていて、非常に共感を覚えました。

で、監督がインタビューに答えています。


★◇。*☆.〇★◇。*☆.〇★◇。*☆.〇★◇。*☆.〇★◇。*☆.〇★◇。*☆

作品の主旨は「体験を創り出すこと」
受け止め方は人によって異なる。
環境映画と捉えたり、ハイテク賛歌やたわごとに思えたり、深い感動を覚えたり、反応はまちまちだ。
映画を観ることに、理由など要らない。
映画は旅であり、目的は旅することで、行き着くことではないからだ。

これは限界への挑戦。6年越しで完成した。
私の主張はこうだ。
今日の社会に重大な出来事はひとつもない。
新聞紙上を賑わしているのは、対立や、不正や、市場経済や、文化の誕生だが、
私に言わせれば、
歴史上のどんな重大事も―― 見過ごされてきた出来事ほど重要ではない。
それはすなわち、古い自然からの移行だ。
人類は貴重な居住空間である自然環境を、科学技術で弄び、大量生産を生活の基盤としてきた。
つまり、作品の題材は、テクノロジーの影響でも、産業の影響でもなく、人へのそれでもない。
人そのものであり、政治や、教育や、財政構造、国家構造や言語、文化や宗教はすべて、テクノロジーの枠の中にある。
そこに内在するすべてが題材なんだ。
我々は、テクノロジーの中に生きている。
それはすでに空気のような存在で――もはや意識はしない

そこで私は従来の前景をすべて省いてみた。
前景とは、俳優の役柄や構造やストーリーだ。
それらを壁紙のように支える背景を、前面に移動して、
それを実体化させ、高尚な肖像画のような風合いを持たせた。
交通は”営み”として捉え、整然とした都市構造は、マイクロチップにだぶらせた。
加速や密度は生活の質として表現した。
疑いなく進んでいく毎日。
疑問のない生活は、まさに宗教的な営みだ。

本来、この作品にタイトルは要らない。
三部作にとって重要なのは、題名ではなくイメージだ。
題名をつけたら――
”表現しがたい”という主張が崩れてしまう。
べつに言語を否定しているわけではないが、
私が思うに、言葉は今、極めて屈辱的な状態にあり、もはや社会を表現していない。
だからこそ――
この作品にタイトルを付けるにあたっては、文化的背景のない言葉を選んだ。
先入観を与えるような意味を持たない言葉をね。
だから文字文化ではなく、優れた口頭文化を持つホピ族の言葉から探した。
それは反語の宝庫で――”正常”が”異常”を、”正気”が”狂気”を意味する。
実に音楽的だ。
私が語りたいのは――
ホピ族の生活や文化ではない。
これは、民族映画でもホピ族の名物紹介でもない。

この作品は、他人の社会観に触れて、そこから刺激を得る機会を提供しているんだ。
その意味では言語への喝采でもある。
社会を表現するための最強の手段としてね。

コヤニスカッツィ。
先ず、”カッツィ”は、人生の生き方を意味する。
”コヤニス”は、狂気や混乱、不安定、崩壊や他人の生活を脅かす生活を表す。
合わせると、
 ”不安定で混乱した生き方”とか、”他の生き方を脅かす生き方”となる。

今は、”浄化の時代”と呼ばれている過渡期で――
浄化によって生活が調和を取り戻しつつある。
”コヤニスカッツィ”は下界の疫病のようなもので、巻末の定義は私のひとり決めだが、語源には忠実であることに変わりはない。
理解されるかはわからない――語源に忠実な姿勢も認めてもらえるかどうかも――重要ではない。


テーマを聞かれてこう答えた。
 ”畏怖たる美” ”愕然たる美” もしくは ”獣性の美”
テクノロジーの賞賛ではない。
私が示したかったのは、
不正や社会的喪失や戦争の実態ではなく、我々が誇りにしているもの。
すなわち、人類が持つ獣性の美しさなんだ。
この作品について人がどう評価するかは問題じゃない。私自身が答えを見出し、悟りを開けるか。
それはまさに苦闘だ。
私は、脚本も書くし、意見も書くことがある。
だが、ある時点で文字はページから消え、いつの間にかイメージと音だけに反応している。
それらに触れていれば、答えは自ずと出てくるはずだ。

★◇。*☆.〇★◇。*☆.〇★◇。*☆.〇★◇。*☆.〇★◇。*☆.〇★◇。*☆

今年は、理論や知識を詰め込むことではなく、何も考えずただ感じることに専念したいと強く思っていた。その意識が、素晴らしい音楽や、こういった映画と縁を結んだのか・・・
「意識は現象化する」を地で行っている昨今である。


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