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zoom RSS 映画「POWAQQATSI」(ポワカッツイ)

<<   作成日時 : 2005/02/12 22:00   >>

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3部作のうちの2番目の映画。第1作目が前述の「KOYAANISQATSI」(コヤニスカッツィ)。
前作同様、映像と音楽だけというのは変わらないが、画風がずいぶんと変わり、音楽もまたそれに伴い大きく雰囲気が変わった。
例によって、映画の最後に初めて文字が出てくる。

                   POWAQQATSI(ポワカッツイ)

                 ポワカッツイとは、ホピ族の言葉で――

               ポワカ(powaq)とカッツイ(qatsi)の合成語
               ポワカは黒魔術師、カッツイは生き方を表す。
               その意味するところは、すなわち―――
                “他の生き方を食い荒らす生き方”である。


なるほど、他の生き方を食い荒らすとは、言い得て妙である。
つまり、今という時代は、共存共栄、共生共益ではないということだ。映像も音楽もとても美的で心地よい。人の生活であり、自然であり、また段々畑のように人が作り出した風景があり、祭りがあり・・・
それが “他の生き方を食い荒らす生き方”がテーマとは・・・う〜〜ん、なるほどなるほどである。
そしてこの3部作品がなんと24年もかけて制作されたというから、これまた驚きである。

ゴッドフリー・レジオ(GODFREY REGGIO)監督と作曲家フィリップ・グラス(PHILIP GLASS) はインタビューで「進歩の衝撃」を語る。


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G.R:この作品の語り部はイメージだ。フィリップ・グラスは音楽面で深く関わり、曲作りのために撮影現場にも足を運んだ。スタジオではラッシュを見ながら、私に細かく注文し、私も無理難題を押し付けて彼を困らせた。私の支離滅裂な説明を、彼は辛抱強く聞いてくれた。
先に映像を編集してあとで曲をつけたのでも――その逆でもない。刺激し合いながら同時に進めたんだ。

P.G:監督の映画作りの手法は―― ずっと独学によって培われたものだ。とても明確で感性的で拒絶しがたい説得力がある。彼は、前作とは画風が異なるのだから曲風も変えるべきだと。

G.R:ハイテクに頼ることは避けられない。作品はアナログでも劇場はハイテクだらけだ。自分が疑っている媒体を使うことに――矛盾をまったく感じない。逆に正しいと思う。
何故なら・・・批判されるのは覚悟の上だが、ハイテクは、人類全体で巻き込んだ媒体で、しかもそれは被写体を極めて赤裸々に映し出してくれる。燃え盛る炎にしても見方によっては、いろんな解釈が成り立つ。他人が解釈が違うからといって異常なわけではない。
マニ教では、異教徒はすべて悪だが、人生そう簡単には割り切れない。あれもこれもありだ。
技術的秩序が目指すのは不滅の世界だ。それはかつて神の領域とされていたが、人類はコンピューターという“神”を手に入れた。
コンピューターは、世界最強の道具となって現代社会のグローバル化をもたらした。その魔力に取り付かれた人類の姿を描いたのがこの3部作なんだ。
死の床に横たわる自分を上空から、客観的に見つめる。その客観性が技術的秩序だ。

   IMPACT OF PROGRESS
      進 歩 の 衝 撃

“ポワカッツイ”は、合成語で生き方を意味する。“ポワカ”が黒魔術師で・・・他人の人生を食べて生きる。自分が生きるために他人の人生を食い荒らす。“ポワカ”は誘惑によって人の心を蝕む。ホラー映画のようにあからさまに迫らない。“ポワカ”と“カッツイ”を組み合わせると、“他の生き方を食い荒らす生き方”となる。

“ポワカッツイ”は南半球を、“コヤニスカッツイ”は産業と技術が支配する北半球を描いた作品だ。
口頭文化に富んだ南半球では未だに――手作りの伝統が生きている。作品の観点から言えば違う解釈もできるが、南の世界はどんどん侵食されている。発展の開発の波にね。
アフリカの生活水準が劣悪だという人もいるが、果たして・・・家や学校や医学や食糧といったもので本当の生活水準が計れるのか。
私はべつに貧困を美徳だとは思わないし、弾圧や受難を美化するつもりもない。ただ、世界は我々の基準とは異なる基準が山ほどある。均質化によって基準の統一が進む中で、南半球の未来を与える生き方は今、最大の危機に瀕している。それは最も繊細でか弱い。
それが最も人間らしいのは文化や価値観の違いから――より細かいグループに分裂してきたからだ。だから壊しやすいんだ。この作品での大きな違いは――

P.G:民族音楽との関わりだ。それはたまたま監督と一緒に南半球を回ったからさ。僕が思うにコラポレーションは、スタジオの中より現場での方がはるかに充実する。だから同行するんだ。これまでとは違って今回はロケ地をすべて回った。監督がいてもいなくてもね。
彼が南半球に惹かれたのは――作品のテーマにぴったりな世界だと感じたからだ。僕も民族音楽が好きで、ラヴィ・シャンカールとは65年からセッションをしてきた。もともと異文化に対する興味が旺盛でね。アフリカに行ったときは――グリオの少年と出会った。僕は彼に案内を頼んでガンピアとセネガルとマリの3カ国を回った。
それから音楽仲間ともう一度回った。そうやって監督と同じ旅をした。一緒じゃなくても同時期にね。だからこそ音楽と映像の表現が調和したんだ。僕がロケ地に行くことは監督の希望でもあったしね。

G.R:これは決して――過去をロマンチックに描いた回想録ではない。過去を牧歌的に捉え理想郷として考えるのは、非現実的で現代にはそぐわない。
現代は出口のない迷路のようなもので、この新世界の技術的秩序について、我々にはまだ何の知識もない。ブラウン管がヒトの発育に及ぼす影響にしても我々は知らずにその光を浴びて育ってきた。それがヒトの成長を促すとしたら――人類は今や迷えるサイボーグだ。

P.G:監督はいつも僕に才能を高めるチャンスを与えてくれる。協力者としては最高だ。ボブ・ウィルソンとかと同じぐらいにね。完璧に信頼されたら最善を尽くして応えたいと思う。相手が誰だろうとね。それがダンサーでも同じことさ。
冒頭のシーンでは面白い実験を試みた。普通、映画は撮影が先だが今回は作曲を先にしたんだ。まずはセラペラダ金鉱のイメージをつかむために、クストーが作った記録映画を見た。セラペラダ金鉱はブラジル北部にあり、毎日大勢の男たちが泥を運んでいる。その映像をもとに僕は10分の曲を書き、オープニング用として録音した。
それから監督と一緒に金鉱に行き、曲の入ったテープをカメラマンに渡した。彼はそれを聞いてから撮影を始めたんだ。驚いた?金鉱は周りを軍に囲まれていて、中に入るには許可証が必要だった。「何の曲だい?」と男たちに聞かれて「ここで生まれた曲だ」と答えたら、「聞かせてくれ」って。気づくと大勢の男たちに囲まれていて、みんなに聞かせるはめに。何人かは映っているが名前は知らない。監督と僕は金鉱の底まで下りた。監督は着くとすぐに下り始めたんだ。穴は広くて深さは約500メートル。監督は大柄でその姿はよく目立った。「底まで行く」と言うので僕は走ったよ。当時金鉱の中には4万人近くいたと思う。

G.R:カメラマンのレオ・ゾードゥミスは、底から這い上がってくる一団を撮っていた。その労力は摩天楼の1階から60階まで歩いて上がるようなもの。すると突然一人の頭に岩が直撃した。慌てふためくレオに私は「絶対に動くな」と。助けに走ると問題を広げかねないからね。けが人はすぐに二人の男に担がれた。まるでキリストのように。二人はうやうやしく彼を穴の上まで運んだ。私はレオを促して一部始終をフィルムに収めさせた。作品に見られる99パーセントは目の前の出来事をしゃにむに撮影したものだ。
仕込んだ現象ではなくあくまでも事実をね。ただ、ルクソールでの撮影では、機材の設置が間に合わなかったので、次のトラックが来るまで少年に待ってもらった。トラックが来ると彼は再び歩き出した。でも、それ以外ではほとんど被写体の人物に注文はしていないし、状況も意図的に設定してもいない。あくまでも記録映画の精神を貫いた。

P.G:「3部作はどうかな?」。僕がそういうと監督はすぐに閃いた。それで早い時期から検討を。3部作にすることで活動範囲も広がる。僕らは20余年かけてアイデアを練った。その内にテーマがどんどん絞り込まれて意見も固まってきた。
「“変化”や“進化”を誠実に捉えよう」とね。

G.R:偶然だが“3”はもともと私にとって縁深い数字だ。3部作という響きは心地よかったし、脚本は3つともそれぞれに私の創作意欲をかき立てた。しかもすぐに完結編の仕上がり具合が予想できた。だからすんなり3部作にすることにしたんだ。
他の2作ではロケ撮影を終えてから、編集で最低限の効果を施した。コヤニスカッツイ、ポワカッツイ。動きをイメージ通り完成させるためにね。

ナコイカッツイでは、場所自体がイメージだ。映像を重ね合わせて幻想的な雰囲気を持たせ、現代社会を表現させた。そして再び活力を与えた。色や明るさや動きの速度を変えてね。色づけられた情景には本質的に実体がない。そういった虚像の世界に脈絡を持たせることで、そこで尊ばれているものに疑問を投げかけている。

ナコイとは、戦争や殺人と言った意味で、カッツイを伴うと、「戦争による人生」とか「殺人による生き方」となる。
他の2作に関する説明でも触れたが、私が意味する戦争とは戦場にあるのではなく、ありふれた日常生活の中にある。普段はそれに気づかない。戦争とは生命力に対する公認の攻撃である。公認の脅威だ。
言い換えれば、
“洗練された暴力”とも
“獣的服従”とも呼べるだろう。それがこの作品の主張でテーマは地球全体だ。

  コヤニスカッツイは  北半球
  ポワカッツイは     南半球
  ナコイカッツイは    世界化の波を表わす 

P.G:「ナコイカッツイ」では、織り込みを多用した。監督は画作りにてこずっていて見せられた映像は全くの未編集だった。でも、話し合っていてピンと来たんだ。織り込みを使えば主要なシーン同士をきれいにつなげられるし、抑揚もつけられるとね。それで僕が最初に曲を書くことに。どっちを先行させるかは状況に応じて柔軟に考えた。どっちが先でも問題ないからね。

G.R:次のステップはこの作品を封切ることと「カッツイ3作」を一作品として公開すること。それから先のことはまだ何も考えていない。習性だよ。昔キリスト教の洗礼を受けて以来、「未来のことは神のみぞ知る」と教わってきたからね。だから、良くも悪くも考えない癖がついている。
友人たちには不評だが私にはそのほうが楽なんだ。でも、構想はあるから・・・数か月以内には動くつもりさ。

P.G:欠点は商業作品としては扱われないこと。だから製作資金の大半は産業界以外から調達したものだ。見たい人は多いが、資金を出す人は少ない。3作仕上げるのに24年もの月日がかかった。だから、あと3つ作る予定だったら完成していないね。でも、監督にはもう次の構想があるようだ。

G.R:人の考えを変えようなんて気はさらさらない。
   世の中には
   世界にとっての答えを知っていると言う人もいる。普通の答えをね。
   私に言わせれば、普通はファシズムだ。
   花の種類を一つにしたり、地域や言語や物事の進め方を統一するのは、
   この世界の存在自体を否定することに他ならない。
   世界は多様性の神秘的な調和によって支えられている。
   つまり、分裂の上に成り立っているんだ。
   極論をすればね。

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言葉は言霊。監督と作曲家の語る言葉には宝石がいっぱいちりばめられている。何度も味わいたい言葉である。

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難しいことは解らないけど・・・
「映画「POWAQQATSI」(ポワカッツイ)」について 読んで、思い出したことがあります。ある時、ある人に私はこう言ったことがありました。  「南半球の人達はかわいそう。北半球の人達に搾取されてばかりいるから。」  こんな答えが返って来ました。  「彼らは、本当に可哀相な人達なんだろうか。可哀相な人なんて、本当は誰もいないよ。」  その時の私には、とても理解出来ない言葉でした。  でも、少しは、理解できるようになりました。  「違いがあっても解りあえる。」  「違いがある... ...続きを見る
びーらぶ日記@WebryBlog
2005/02/14 17:33

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