心のまま大らかに

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<<   作成日時 : 2005/02/26 16:54   >>

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どこまでゆけば涙のしずくがきれいになるのだろう」について
もう、20年も前になるだろうか、私は空海さんが大好きで、「空海」という題名の映画を観に行ったことがある。それは北大路欣也主役の「弘法大師御入定1,150年御遠忌記念映画」であった。

それからまた、私の人生に節目が訪れた8年ほど前に、今度はビデオだったかで同じ映画を自宅で見る機会が訪れた。その中で深く私の心に甦ってきた言葉は、

  「生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く
    死に死に死に死んで 死の終わりに冥(くら)し」

であった。単純に読んでもこの言葉に何の説明も要らない。
私は折に触れ、この言葉をよく思い出すときがある。
映画館ではじめて観たときに購入してきた小冊子は今も大切に書棚に残っているが、
それを開いてみると、その当時の感動が甦ってくる。

   ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
  
    「この風を止めようと思うな、おのれが風になれ」

    「人は、なぜ生きるのだ・・・」

    「私は旅をしているのだ・・・・・・ 宇宙の根元に向かって 旅をしている」

    「生きる力をよぶのだ
         風がふくように、光がさすように
               心の中に風を呼びおこせ、光を放て」

    ― その声は、無明の闇をつきぬけて人々の心に響き、― その人は生きるもの
       すべての世界(こころ)をひらいた。
                                  (「空海」パンフレットより)
   ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞  

ところで、生れたときは「暗」で、死ぬときは何故「冥」なのだろうか・・
20年前と、8年前と今では、その受け止め方、理解に微妙な違いを感じる。
確かに、「暗」も「冥」も「くらい」と読むし、明るさにおいては「くらい」に違いない。

生れてくるときは、暗くて狭い産道を通り抜け、やっとの思いでこの世に生を受ける。
生れる瞬間は窒息状態で、記憶も消される。そして、息を吹き返し「おぎゃ〜」と産声を上げる。
「生の始めに暗い」とは、過去のすべてが隠されてしまった状態なのだ。

そして、人生を歩むうちに冥加・冥利をいただき、冥感し、死後において冥福に至るという、
常に、すべてが一体の世界であるからこその「冥し」ではなかろうか。
肉体の死が訪れるまでに、私たちは消された記憶をどれだけ思い出せるだろうか・・・
お母さんのお腹にいるときまでは、
何の目的で生れるのかを、まだしっかり覚えていたはずなのだ。

人は生れるときも死ぬときも、
往くときは、見た目は一人であるが、見えない存在たちとは常に共にあるのだ。
それが分かると、何ものにも捉われず、不安恐怖ともさよならができる。
さあ、思い出そう。今生でのテーマは?何のために生きているのか?
少しずつでも、自分を解放しよう。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは,トラックバックありがとうございました。
じつはわたしも「空海」という映画は東京で観たことがあります。
生と死はたしかにむずかしい問題ですが,つきつめれば空海のいう世界観に真実があるのかもしれない。でもそれは一瞬のひらめきのような体感・実感であり,わたしにの目やこころは曇っていて,それがわからないのかもしれません。

死ぬまでに書き残したいこと
2005/02/26 19:26
生と死は背中合わせで、いつも一体ですね。
私は、いつも死を感じながら生きています。それほど身近です。
それは、今すぐ「死」が迫っているというのではなくですが…
生と死と常に向き合っているのか、背中合わせでいるのかは、
その感じ方見方で、ずいぶんと感覚的に違うのかもしれませんね。

←生死→ 生→←死(矢印は視線の方向) 
これは直線的ですが○にしたどちらも同じだということが分かります。
向き合っているときは背中が寒いのかもしれませんね。*^-^*
自由気ままに
2005/02/26 20:41
このブログを読んで、「今」の私で感じられる部分は、感じられたと思います。
また明日か、一ヶ月後なのか、いつかは分からないけれど、自分の中でまた何か体験したことのない新境地に足を踏み入れたときに、また読みたいブログです。
chiho
2005/02/26 23:23
Chihoさん、コメントありがとうございます。
その時々に感じることってありますね。心の位置が違えば同じものを見ても感じ方は人それぞれであり、その時々においてそれぞれということですね。
それにしてもですが・・・
何であれ、「背中合わせ」は温かいですよ。向き合わないことによって多くのことを感じることができますし、何よりも一体感がありますね。
円(○)の上に背中合わせに座ったとイメージしてみてください。お互いの目線はぐるっとカーブしながら向き合っていることが分かりますね。
で、向き合った位置から同じようぐるっと回るとどこまで行っても背中合わせになることがないことに気づきます。
あまり向き合いすぎると交差し、すれ違ってしまうことが多いのかもしれません。子供のころ寒いときに「押しくらまんじゅう」っていう遊びしたこと思い出しませんか?*^-^*
自由気ままに
2005/02/26 23:59
なるほど*^^*ですね。今まで私は、どちらかと言えば「並ぶ」感覚でした。
何でも「向き合う」のはぶつかり合っちゃう感じがしていたので、横に並んで、という感覚でしたね。でも「平行線」という言葉もあるように、それも交わるわけでもない・・・となると、やっぱり「背中合わせ」で「円」で丸くなると、手をつながなくても交わるし、ひとつなんですね、そっか、なるほどです*^^*
chiho
2005/03/01 22:36
うふふ、わかった〜?でしょ〜?*^-^*
並んでいるときは、手をつなげばいいんじゃないかしら?
実際にね、ネット上で知り合った人たちとは背中合わせであったり、横に並んだり、しっかり目と目を合わせてお話したり、その時々自由自在ですね。
どんなときでもお相手の心だけが見えている感じかな。心を感じるからお話ができるんですね。本当に「みんなみんな愛しているよ〜」って抱きしめたくなっちゃいますね。それは男女でも同性同士でも関係なく人間としてですが。
だから、Chihoさんにもハグハグです♪*^-^*
自由気ままに
2005/03/01 23:05

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