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zoom RSS 「「死」を受け入れること」について

<<   作成日時 : 2005/05/18 14:21   >>

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「死」を受け入れること」について
Chihoさん、こんにちは。
「生と死」は、誰もが共通して持っているテーマなので、トラックバックさせてただきますね。私は「生と死」は背中合わせの関係だと思っていますので、何も特別なものではないと受け止めています。

>別に普段やたらと意識しているわけじゃない。
>ごく、自然に、という感じ。

そうですね。*^-^*
私はいつも「いのち」を感じているので、ごく普通に常に「死」はありますよ。
何しろ背中合わせですから。*^-^*

『死を見つめ続けることは生きること。
  死を感じながら生きること。
    己を感じながら生きること。』

これは、ある方の言葉ですが、全く同感です。常に身近にあるから「いのち」の大切さも分かるんですね。粗末には扱えなくなりますし、感謝の心が芽生えます。
人は「死」というと、何故か不思議なことに、「若いのに」とか「まだそんなこと考えなくても」と言うように、話題を逸らしたり、嫌がりますね。それも、その人の心の投影でしかありませんが・・・
けれど、Chihoさんが仰るように、

>私は「死」を意識し続けている。
>その意識の始まりは特別なものじゃない。
>よくありがちな環境の中で
>「私はなぜ生まれてきたのだろう」
>「なぜ生きているのだろう」
>と考えるようになってからだ。

 生きるということにおいて、その反対の意味を知ることはとても大切だと思います。今の時代の風潮として、「いのち」がとても粗末に扱われているのは、生きること、死ぬこと、を教えてこなかったからではないかと思います。そして、また、核家族の時代になって、人の「死」に身近に接することがなくなったのも影響していると思います。 昔は、教えなくても子供心にも感じたり、記憶に留めて考える機会があったと思いますね。

 私が始めて「死」に直面したのは、3、4歳ぐらいの時で、生後間もない妹でした。そして5歳後半ぐらいに祖父が癌で亡くなりました。この二つの出来事は、幼かった私の脳裏にしっかり刻み込まれ、今でも思い出します。その後も、友達の死や、親戚家族の死に接する度に、「死」を見つめ続けてきたと思います。そして、その時々に口には出しませんが、ずっと人の「心」を見てきたと思います。
それは、死にいく人からの贈り物だったとも思います。

また、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことは、見方によれば、決して「苦」ではないのです。

生まれること
確かに、狭い産道を通る時、窒息状態で、生きるテーマや目的の記憶を喪失し、この世に出てきます。そのときようやく、息を吹き返し、「おぎゃー」と(誕生の喜びの)産声を上げるんですね。
もし、このとき産声を上げられなかったら、窒息状態のまま死を迎えるわけです。
ですので、生まれる前に一度死んでいるんです。*^-^*
これは一体何を意味しているのでしょう?
そう。人生の最大テーマが既にこの時点で、忘れないように暗示されているんですね。それぞれの人生のテーマは違っていても、この生まれる時の体験は全員するわけですから、これは全人類のテーマとしてあるものです。
何かと言うと、「死して生きる」です。
これこそが、全人類共通の、人生の目的であり、テーマではないでしょうか。*^-^*
そのスタートが切れたわけですから、「おめでとう」なんですね。

老いること
人は生まれた時から、「老」に向かっています。確かに、成長期があって、青年期、壮年期、老年期とありますが、それは肉体についてであり、私たちの最も本質なるものは常に「老」に向かっていると思います。「老」は肉体が老いることでもありますが、「老練」と言う言葉があるように、多くの経験を積み重ね、習熟、成熟していく様も含まれていると思います。
よく、若い時に戻りたいという人がいますが、私は嫌ですね。*^-^*
せっかくここまでいろいろな体験を積んで少しは成長してきたのに、また未熟な自分に戻って苦い経験をやり直さなければならないなんて、御免です。私にとって人生も半ばを過ぎての今が一番楽しいです。若い時は若い時なりの楽しみがあり、またいくつになってもその時々の楽しみもありますから、今が一番ということになりますね。*^-^*
老いることも、また「おめでとう」なのです。

病むこと
これも、現象的には痛かったり辛かったり、不安がよぎったり、確かに「病苦」というものもあります。
けれど、それは自分が自分の学びとして選んだテーマであり、設定は自分がしているんですね。
「そんなことない」と言っても、誕生する際に記憶を失っているんですから、思い出すことが出来れば、納得するのではないでしょうか。また、そうでなくても、必ず二者択一の世界です。
「無理をすれば道理引っ込む」で、無理をすれば病気になったり何らかの問題が起きるわけです。
そんなこと「分かっちゃいるけど止められない」の通りで、これ以上無理をすれば病気になると分かっていても無理して、その結果病気になるとか、それも、自分が選んでいるわけです。

 私も、長年難病と仲良く付き合っていますが、そのお陰でどれだけ成長したでしょうか。
学生時代は、炎天下で真っ黒になってバレーボールに熱中したり、就職先が自動車メーカーでしたので、車を乗り回したり、資格を取るために学校へ通ったり、自分の思う通りの青春を謳歌したものです。
結婚後も、仕事も勉強も好きなことを自由にやって、主婦もしっかりやっていましたが、病気になって、仕事を離れ、学校にも通えなくなり、趣味も続けられなくなり、何も出来なくなり、そうやって、ひとつひとつを放棄せざるを得ない時代を過ごしました。
その間も、ずっと「心」を見続けてきましたので、いろいろなことに気づくにはよい時代だったと思います。本当に、今在るのは「病気」のお陰。周囲の人のお陰。心から『病気よありがとう』と言える暮らしをさせてもらっています。だから、これも「おめでとう」なのです。

最後の「死ぬ」こと
これも、それぞれが死期というものを設定してきていると思いますので、医者がいくら「死の宣告」をしても関係ないですね。つまり主体は自分なのです。医者が決めるわけではないのです。
けれど、宣告されると、家族もみなその日に意識を集中させますので、その通りになっていくのです。だって、意識が現象として現れるのですから。*^-^*
そして「死」の捉え方次第で、そのときの迎え方も随分と違ったことになると思います。
「死」は終わりではなく、新たな始まりです。そして、肉体には限りが在りますが、いのちは永遠です。何も恐れることはないのですね。「死」は解放であり、卒業であり、新たな旅立ちであり、進化です。「死」を通して「生」を知ることができるんですね。看取り方、看取られ方も、全ては学びですし、相手があって学ぶことが出来るのです。だから、やはり「ありがとう」であり「おめでとう」なのですね。

>生きている実感 
>死を受け入れて生を楽しむ
>
>そんな気がするのは
>私だけかしら?*^^*

はい、私もですよ。*^-^*
死に限らず何でも否定や拒否をするのではなく、受け容れることで、人生は楽しくなりますね。
何と言っても、「人生は遊び」という感覚の私ですから。*^-^*



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「「「死」を受け入れること」について」について え〜いっ!ダブルブーメランっ!!!ヽ*⌒∇⌒)ノ――――=メhブーン さっすが「自由きままに」さん、分かりやすく解きほぐしてくれてありがとうございます!!(笑) 読んでいてスカッとしますね笑  私も思い出しました。初めて死と向き合ったのが5歳で、祖父が亡くなったときでした。病院のドアにもたれた母が号泣していて、私も悲しくなって泣いていた記憶があります。触ったらとても冷たかった記憶が今も残っています。「死」はとても大切なことを教えてくれ... ...続きを見る
BRONZE〜音のある風景〜by Ch...
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