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zoom RSS 見えない道を辿る

<<   作成日時 : 2007/05/26 11:53   >>

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今朝はまどろみの中で「見えない道」について対話していた。
はじめ、北原白秋の「この道」が聴こえてきた。心の中で歌ってみる。

   この道はいつか来た道、 ああ、そうだよ、 あかしやの花が咲いてる。
 
   あの丘はいつか見た丘、 ああ、そうだよ、 ほら、白い時計台だよ。・・・・・・

私たちは、初めて通った道や、行った町で「あら?、ここは前にも来たことがある」という感覚に見舞われることがある。そこは確かに記憶の中で行ったことのある町や道につながっているのだろう。
私の意識は、「この道」の歌から更に進んでいく・・・

目が覚めた時、ふと浮かんだのは、
≪僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる≫だった。
正確には高村光太郎の「道程」
僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のために
この遠い道程のために

だった。
確かに、自分の前には道はなく、道は後ろにできる。それは自分が歩んできた人生という道だからである。

しかし、私がまどろみの中で観た道は、肉眼の目には見えない道だった。
見えないから道はないのかというとそうではない。

それは、漢字の「凶」という文字が示唆している。四方八方塞がれてもうどこへも逃げ場がない、解決の道がないと追い詰められているその瞬間でさえも、自分を追い込んでいるその問題が吉と出るか凶と出るかは、見えない道を見つけそれを歩むかどうかである。
凶の中にあるメを目とすれば、見上げればそこには空が見える。天が見える。光が射し込んでもいる。決して真っ暗闇ではない。

先日の神人さんのライブで、神人さんは、私たちの本体は目に見えている肉体ではなく、霊なんだと仰っていた。肉体は霊(魂)の衣装であり、借り物(仮の物)である。
私たちの本体、本質である霊体でモノを見るには霊眼で視るわけだが、勿論、それは肉眼では見えない。まだ形になっていないからだ。
霊眼で視るそれは、イメージとして見える。
たとえば、「今日のお昼はカレーライスでも食べようかな」と思った瞬間、美味しそうなカレーライスをイメージして目に浮かんでいることがあると思う。そして、お昼になって食堂へ行きカレーライスを注文すると、初めて肉眼で見える物体としてのカレーライスが現われる。
うふふ。そのとき気が変わって別の注文をすればカレーライスは現われないけれど、それは食べたいという意識がそれほど強くなかったからよね。(^O^)v

だから、霊が視ることを霊視といって、誰もが普段意識しなくても霊視はしているのだ。ただ、なにを視るかはどこと周波数を合わせるかで決まる。

で、霊眼で視てイメージした通りを現象として現わすには、「凶」の文字のように「見上げれば天」で、天の道というか霊主体従で、霊が感じたまま、直感に導かれてただ素直に従って歩んでいくだけなのではないだろうか。
それは、見えないけれど現象として形に現すための「道」があるということである。
見えないけれど無いのではなく、本質である霊体が導いてくれる道が存在しているということである。
見えない道を歩むことによって、形として自分の後ろに辿った足跡としての道があるのだ。

まどろみの中での対話とは、
「内なる神性、霊体を信頼し、霊感・直感の導くままに歩め」ということだった。
その道を歩んでいくことで、成りたい自分へ、人生の目的へ、近づいていくことができる。

ふと、高村光太郎もこの見えない道を視て歩んでいたのかもしれないと思った。

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