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zoom RSS 生かたは逝きかた−2−

<<   作成日時 : 2007/11/01 23:42   >>

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生かたは逝きかた」について
友の訃報に触れ、逝きかたについて少し呆けてしまったきらいがある。
ベランダ事件のあと友人と話したことは、大騒ぎはしないというところから「孤独死」についてであった。

果たして、孤独死は不幸なことなのだろうか?
今後日本社会は益々高齢化が進んでいく。独り生活のお年寄りも今まで以上に増えていくことは間違いないことである。当然「孤独死」も増えてくるのではないだろうか。誰にも看取られず寂しい思いで旅立つ人もいるだろうが、必ずしもそうとは言い切れないと思う。

私の子どものころは、自宅で亡くなるひとも多かったように思うが、今では病院が息を引き取る場所になっている。
危篤になると家族が呼ばれて容態をみんなで見守り待機する。いよいよとなって急変すれば病室から出されて医師らが処置をする。そして中へ呼ばれたときは臨終である。
これを不思議とも何とも思わなくなっているのは何故だろう?
そもそも待機するって何を?死を待つということ?
それは確かにお別れの儀式的なものかもしれないが、私なら静かに逝きたいからベッドの周りを囲んでそのときを待ってもらう必要はない。*^-^*
きっとそのときが来たと感じたらその前に自然な形で別れを済ませられていると思うのが、その理由である。

ましてや「がんばって」とか「逝かないで」とかの引止めの言葉はいよいよとなったときには全く必要としない。。
ひとり静かに旅立ちの準備というか、人生を振り返り、自分の人生は素晴らしかったと感謝し、さあ次のステージへ旅立とうと心に決めてそのときを静かに待つ・・・
そんな最期を迎えたいものだ。決して看取るものがいない孤独死が不幸とも寂しいとも思わない。私に限ってはであるが。

私は今までに親戚家族、友人等々たくさんの人々の死に接している。葬儀も様々でその人の人生を垣間見る思いもした。
看取り方もそれぞれであるし、どれがどうということはないが、逆の言い方をすれば看取られ方にもそのひとの生きかたが重なって見えることもあった。
そして、いよいよ最愛の夫を看取らなければならないときが訪れた。

お互いに慌てもせずジタバタせず、日々を今までどおりにありのままに過ごし、自宅で静かに寄り添いながらそのときを迎えた。夫を通して看取り方を学ばせてもらった私はあとは自分の逝きかただけが体験学習として残っていることになる。

ひとは生まれた時から死へ向かっている。元気なときはそんなこと考えもしないが、病気にでもなってそれがどんどん進行し、治りようもないと分かっていたらどうするだろうか?
それでも「大丈夫。必ずよくなるからね」「がんばって!」「気の持ち様だよ」なんていえるだろうか?
私は、軽々しくそういう言葉は言えなかった。ただ寄り添って一緒に感じてあげることしかできなかった。
私自身も、自分がどうにもならないほど辛いときには、手をつないでじっと傍にいてもらうのが一番の安らぎだった。それだけで辛さが緩和していく体験もしている。
人それぞれ個人差はあるだろうが、言葉が何の役にも立たなくなったときに無理に言葉にすると、安っぽくなったり、言わなくていいことを言って相手をがっかりさせたり傷つけたりで虚しさを覚えることもある。

それよりも、ありのままを受け止め、受け容れれば、寄り添うことしかなくなるのではないだろうか。ただそっと寄り添う。・・・それが支えあうことにもなる。安心につながる。

生前に夫と話していたことは、位牌も遺影も墓も何も要らない。葬式も要らないということだった。ただ生身の体だけは土に帰すことができない現状では、最小限の火葬だけはしなくてはねということだった。
実際にそれでよいのだと思う。
自然界では木も草も自然に朽ち土に還り、犬や猫でも(ペットは別としても)死を感じれば姿を消す。人間もできるだけ自然でありたいねという話である。

勿論、今後に起こることは誰にも予測はできない。今までの価値観だけにしがみついていたらとても生きてはいけないだろうし、死そのものもあるのかないのか・・・の世界だ。
どちらにしても、どんな逝きかたを選ぶのかは、そのひとがどんな生き方をしてきたかで決まる。
そのときが来たら、慌てず騒がず淡々とあるがままを受け容れていくことが大事なことだと思う。ジタバタせず静かに逝く邪魔はしないことだと思う。

これは友人と語り合ったことであり、別に異論があっても構わないことだ。自分の価値観を押し付ける気はさらさらないし、又逆に押し付けられることも要らない。
幸い、友人は私の逝きかたに理解を示してくれたが、仮に理解できなかったとしてもそれもOKということである。
ただし、こういう話をしても、私に死期が迫っているというわけではないので心配はご無用である。*^-^*

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
自分の意見を押し付けながら
親切と、正しいと勘違いしていることがある。

akioさん、あなたにぴったりの言葉ですね。
007
2007/11/02 21:37
007さんへ

>自分の意見を押し付けながら…akioさん、あなたにぴったりの言葉ですね。

どこが、押し付けているのですか?
具体的に言わずに只、押し付けているというのは、
単にあなたは、私が押し付けていると決め付けているだけではないですか?
これこそ本当の押し付けと言うのではないのですか?
私は、人に押し付けたことは、一切ありません。
007さんは、いきなりこのようなコメントをしてきて
大変失礼な方であると思いました。
次にコメントされるなら押し付けとは何かか具体的に定義してからにしてください。

akio
2007/11/03 15:02
007さんもいろいろと気苦労されていることと思います。
心が寂しいのだと思います。
私は、いろいろな人と話をして様々な意見を聞くのが好きです。
その中には、明らかに自分の考え方と違う意見の人もいます。
でも、それはそれでいいのです。自分とは違う人間なので、
当然、そういうケースは考えられます。
特に海外へ行って様々な人種と意見交換するとよく分かります。
人はそれぞれ意見を言い合いその人なりに人生を成功するための
ヒントを得ればよいと考えます。せっかく言葉という道具があるのですから。全ては各々の自己の幸福のために。

akio
2007/11/03 15:17
気楽さん こんにちは

気楽さんはご主人の看護で、本当に色々な事を感じてこられたと思います。
今、私は母の介護の段階に入って、色々感じます。
母と同居させてもらっているからこそ感じられることが多いのだと感謝ですし、私の我儘がでれば、ため息もでます。
そんな日常ですが、母と私に必要な時間を頂戴していると思います。

人生の最後をどう迎えるかまでは、まだ考えていませんが、日々、体力の衰えを見せている母を見ていると、とても悲しくなる時があります。

私にはどうしてあげることもできないけれど、側についていてあげたいというのが、今の私の素直な気持ちです。
真子
2007/11/05 11:29
真子さん こんにちは♪

>人生の最後をどう迎えるかまでは、まだ考えていませんが、
>日々、体力の衰えを見せている母を見ていると、とても悲しくなる時があります。

そうですね。どうしようもない現実というのがありますね。私の母は病院で最期を迎えましたが、見舞いに行くたびに小さくなっていく母を見て、こんなに小さくなってしまった母のお腹から私は生まれたのだとしみじみ思いました。そのとき本当に心の底から「おかあさん、私を産んでくれてありがとう」という感謝の思いが湧き上がってきました。
普段、元気な母を見てならそれほど思わないことでも、「老い」が私の中の感謝の思いを目覚めさせてくれたのですね。それはとてもありがたいことでした。

>私にはどうしてあげることもできないけれど、側についていてあげたいというのが、今の私の素直な気持ちです。

それでよいのだと思います。寄り添うことで今までの苦悩やしがらみからほどけ、感謝や愛で絆が更に結ばれるのでしょうね。*^-^*
氣楽
2007/11/05 15:08

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