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zoom RSS 物差しのないものを測る

<<   作成日時 : 2008/03/05 01:03   >>

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友のブログを読んでトラックバックコメントを書いていたが、途中でそのままになってしまった。
それをきっかけに、いくつかシンクロ現象があったので、まとめておきたいと思う。
自分を惑わすものは何か?といえば、物差しのないものを測ろうとするところにあると思う。

私たちの判断基準とは一体何なのだろうか?とあらためて考えるに、
それはあくまでも自分だけの物差しで、ああだのこうだのと決めて、判断していることである。
自分だけの、自分の体験に基づいて作り出した物差しだから、他の人が持つ物差しとは必ずしも一致しない。

それぞれがそれぞれの体験に基づいて作り出した判断基準だから、それは自分の心の投影でしかない。
それを、他人にも当てはめようとするところに無理があり、錯覚やら思い違いやら、決め付け、思い込みが生じる。そして、互いに窮屈になる。疑心暗鬼に陥り不安にもなってくる・・・

  解決策は、
   そろそろ、判断することも止めにしたらよいということである。


謙虚さを追究していくと、どんなことに対しても決して否定は出来なくなる。
それぞれの人生におけるテーマがみな違うのだから、それぞれが自分のテーマに取り組めばよい。人のテーマが自分と違っていたとしてもそれが当たり前なのだから、とやかく言うものではない。

覚醒をいくら求めても、知識や情報をいくら集めても、そこに答えがあるわけではなく、自分の内側にしか答えはないのだから、ただただ観ることに徹し、手放していけばよいことである。
そもそも、覚醒ということについても本当のところは分かってはいないのではないだろうか?
覚醒を求めるということは、まだ覚醒していないのだから、何が覚醒かということが分かっているわけではないのだと思う。
だから、一所懸命に覚醒についての情報を集め、分かった気になってしまう。しかし、それは知識の世界でしかない。それは、知っただけで体験ではない。


以前に、私は宗教に入っていた。仏教を学んだことになるが、そのときにいっぱい知識を詰め込んだかと言えばそうではなかったようだ。
確かに法話で教学も学ばせていただいたし、真剣にノートをとって理解も深めたことはあったが、それを実践に結び付けてきたので、体験を通しての気づきが私の財産となった。

何を学んだのか?
ひとつだけはっきりしていることは、

 因縁因果。つまり「縁起の法」である。分かり易い言葉では「自業自得」ということである。

このことだけは、しっかりと身についた。
だから、何が起きても人のせいにはできなくなっていく。
すべては自分と思えるようになれば、ひとのことは気にならなくなる。
他人と比べてどうだとかこうだとかの、曖昧な物差しは不要になるので作らなくなるし、持たなくなる。理屈をこねることも苦手になる。

すべては鏡と真に理解した時、相手を責めたり非難することも、否定することもなくなっていく。
そもそも、間違っているとか正しいとかの判断も不要であることに気づいていくわけだから至ってシンプルである。

そして、もうひとつ大事なことは、

 前を向いて歩めるようになったということである。

因縁因果という法則を理解し身につけていくと、現在の現象は過去の結果だということがわかる。過去の結果は自業自得なのだから甘んじて受けるしかなく、そこから何に気づかせていただくかであって、ああだこうだと愚痴をこぼしても始まらない。省みることで、今、ここからどのように始めるのか?常に前を向いて歩き続けることが大事なことだと思う。

言い換えれば、因縁因果を理解したなら前を向こうと思わなくても、前向きになれるのだと思う。意識するしないに拘らず成っていく世界なのだと思う。

だから、自分だけの物差しで計らないことだ。自分だけの価値基準・判断基準にとらわれないことである。それらの基準も自分が変われば変わってしまうものなだから。
私たちは、確かなものに基準をおく必要があると思う。



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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
全くその通りだと私も思います。
個々の正義は、一なるものが多様性を獲得したことで生じた幻に過ぎません。全てが一体であるという真理にたどり着くとき、正義で人を裁くことができなくなっている自分に気がつきます。
激しい感情に押し流される瞬間、自分にはまだ正義が残っていることに気付かされますが、それでも、そのような自分を受け入れ、愛することで、さらに正義が希薄になっていくことを実感しています。
これが、あるがままの境地なのかも知れないと頷くこのごろです。
SHO
2008/04/20 10:50
こんばんは。
コメント、ありがとうごさいます。

そうですね。知れば知るほど否定するものがなくなっていきます。
自然界において人間社会にだけ裁判所があるんですね。人が人を裁くなんてできるはずもないのに、そして、何の解決にもならないのに。
本質に目を向ければ分かることなのに、その時々の常識とか風潮とかにも惑わされてきましたね。
あるがままとは、自他共のあるがままを受け容れることなのですね。
日々気づかせていただくことに感謝です。
氣楽
2008/04/20 20:29

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